完本 文語文
「何用あって月世界へ?-月はながめるものである」などの名言と、
多くの名コラムを残した著者が、
文語文について書いたものを一冊にまとめたものです。
著者は、樋口一葉、夏目漱石の死とともに文語文は途絶えたと言います。
言文一致の口語文に取って代わられて、私たちは何を失ったのか。
この本ではそれが繰り返し語られます。「何より口語文には文語文にある「美」がない。したがって詩の言葉にならない。文語には千年以上の歴史がある。背後に和漢の古典がある。百年や二百年では口語は詩の言葉にはならない。たぶん永遠にならないだろう」
「和漢の古典には文脈に混乱がない。混乱が生じたのは大正期の岩波用語の時代からである。それまでの文にはリズムがあったから暗誦にたえた」
“秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみて”の上田敏の訳詩(「落葉」)や
“まだ上げ初めし前髪の”(島崎藤村「初恋」)など文語の詩の一節が、
なぜ思わず口をついて出るのか、これで納得しました。
そして、文脈に混乱がない、リズムのある美しい文語文に触れたいと思った読者には、四書五経など中国の古典と日本では樋口一葉、尾崎紅葉、中島敦、永井荷風他、多くの人と作品が紹介されます。
中島敦「李陵」では、その冒頭を読み、「弱年の私は読んでほとんど恍惚とした。日本語が失ったリズムと力が躍動している」と書いています。(ほとんど恍惚と)する口語文に出会う日はくるのでしょうか。
また、語尾について、
「谷崎は口語文の欠点として文末をあげている。である、です、だ、しかない。紅葉、緑雨、荷風、春夫の文末を見よ、いかに変化に富んでいるか。文末がやで終っていると次はけりにする、べしにする、のみにする、一つとして重なることがないように心がけている」とあります。
語尾や言葉が重ならないようにするというのは、文章を書く際、皆苦心するところですが、文語文が消えて、多様な語尾も多様な言葉も多く姿を消しました。
けれども、今さら文語文に戻ることはできません。
著者は、「原則として滅びた言葉は用いない。古語や死語を復活させる気はさらにない」と言い、続けて
「ただ、今ならまだ間にあう、生き返らせることができる言葉は使う」
と言っています。
そうか、これならできると思います。
本の中に、「よったり(四人)」という今はほとんど消えてしまった言葉のことが出てきますが、私は祖父がそう言うのをよく聴きました。
著者は、今そこにいるかのように樋口一葉や二葉亭四迷のことを書いています。
著者の中では二人とも生きていたのです。
一度は断絶されてしまった文語文も、一度触れればそこから再生が始まります。
せめて和漢の古典を読み、自分自身の中で少しずつ生き返らせたいと思わせる一冊です。